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中田雑文集

1)JSCA 建築のパイオニア達                   中田捷夫

 

 私が坪井研究室に初めて行ったのは昭和38年で卒業論文の指導を受けるためでした。翌年の昭和39年には新潟地震が発生し、初めてみる大地震の被害に仰天しましたが、この年は日本が戦後の復興期から脱却して新しい技術大国へと歩き出した記念すべき年でもありました。東京オリンピックと新幹線開通という象徴的な出来事とともに、工学の分野でもコンピュータ工学の展開と関連する解析ソフトの開発が急激に行われたのです。

 大学院の1年生になって初めてコンピュータに対面しました。私の恩師、坪井善勝博士は東大生産技術研究所の教授で57歳、定年を3年後に控えて既に連続体の研究では世界的に著名になり、その年に名著「曲面構造」を出版されました。日大の大学院に籍を置いていた私にも東大の学生と同様の待遇を与えて戴き、研究のテーマも「HPシェルのフーリエ解析」という坪井先生が最も得意とする連続体の解析解に挑戦することになりました。「手計算で解けないような解は意味がない」とかねがね言われていた私は、少なくともタイガー手回し計算機で如何に数値解を得るかが課題になりました。やがて、電動の機械式計算機・フリーデンが生研5部(土木・建築)に1台導入され、各研究室で予約合戦が起きましたが、体力的にはやや楽になったものの本質的には何ら改善された訳ではありませんでした。

  連続体の力学は1900年代に入ってからドイツを中心に連続体の研究が始まり、矩形板の研究論文、H.Hencky “Der Spannungszustand in rechteckingen Platten” Munchen が1913年に発表されています。日本では1953年に坂静雄先生がHPシェルの論文を独語で発表され、1955年には坪井善勝「平面構造論」が出版されました。これが坪井先生の最初の連続体の著書で、私の学生時代の最も大切な座右の書だったのですが、誰かに貸したところ行方不明になってしまい残念ながら今は手元にありません。

しかしこれらは主として平板問題を扱っていて、本格的な曲面版の研究はそれから暫く経ってから、すなわち1958年の扁平殻の基礎微分方程式ウラソフ式がW.S.Wlasov “Allgemine Schalentheorie und ihre Anwendung in der Technik” において明らかにされたのが始まりだとも言えましょう。その2年後の1960年には名著 Fluge “Stress in shells” が出版され、更に坪井先生の東大時代の研究の集大成とも言える連続体の名著、「曲面構造」が丸善出版から刊行され、空間構造研究者にとって必読の書になりました。勿論現在は既に絶版になって久しく、神田の古本屋街でたまに見かけることがあるそうですが数万円の値札が付いているそうです。坪井先生の最後の著書は「連続体力学序説」(産業図書)で昭和52年(1977年)に初版を刊行されたのですが、この本も7年ほど前に書店でのストックがなくなって入手することは出来なくなり、やはり古本として高額で販売されているそうです。このため、この分野の研究者や学生にとっては連続体に関する参考書がなく、大変不自由だそうで、何らかの形で復刻版が出版できないかと思案をしています。

 

  昭和40年だったと思いますが、坪井先生がハワイ大学の講義から帰られたときに一冊の本を持ち帰られました。Argylis著のEnergy Theorem というこの本は、航空機の骨組みの解析を扱っていて、解はマトリックスの形で纏められ、「マトリクス変位法」または「マトリクス応力法」と呼ばれて、任意形状の骨組み解析に威力を発揮することになります。この本は当時修士1年生だった半谷裕彦博士(元東京大学教授、故人)に預けられ、理論のフォローが行われました。実際の計算は、当時坪井研が取り組んでいたSingapore Sports Complex の観覧席に採用された異型ラーメンの応力解析でした。当時、東大生研にはOKITAC 5090 と呼ばれる沖電気の4号機(?)が導入されていましたが、記憶容量が2000番地しかなく、逆マトリクス用のプログラムで350番地を占めるので、データに使える番地は1640番地となり、40 ×40が最大で、節点数にして13節点の解析しか出来ませんでした。それでも数値解がでて手書きで変位図を書いた時の驚きは今でも覚えています。代数でフレームが解けることは想像を超えていたのです。

 この事件以来、研究室の皆が何れ押し寄せてくるコンピュータ化の波をそれとなく感じていました。今までの設計に費やされた大部分の時間は骨組みの応力解析であったのが、応力解析だけでなく断面の検定まで瞬時にこなす時代が来て、設計者はより魅力的な構造体の追及をしたり、いっぱい模型を作って構造体の特性を調べたりしてもっと密度の高い設計が出来るようになる、漠然とそう思っていたのは私だけではなかったと思います。そして、三角定規と平行定規を当てて、ステドラーのホルダーで書く図面、書き入れには数字のテンプレートとゴム判を用いて作る図面は今で言えば「味のある」表現ではあるものの、実にエネルギーのいる作業であったと記憶しています。しかしながら、これらの作業の大部分が機械化され、殆んど人手を煩わせることなく電子化されるまでにはそれなりの時間が必要で、相当先のことだろうとは思っていました。しかしそれは今振り返ってみるとあっという間の出来事だったのです。

私が修士課程を終えて2年目、昭和43年に坪井先生が東大を退官され、私は先生と共に椿山荘近くの目白台アパート内の新事務所に移ることになりました。その頃、坪井研は大阪万博・お祭り広場大屋根架構の設計がピークを迎え、全員総出で取り組んでいました。昭和39年に竣工した東京オリンピック屋内総合競技場と東京カテドラル聖マリア大聖堂に続くプロジェクトとして猫の手も借りたいほどの忙しさだったのです。私は、それまで坪井先生の論文の整理や計算のデータ作りなど研究のお手伝いをしていて、実務的な経験が全くなく、「ズブの素人」(法政大学名誉教授・川口衞先生談)状態でしたので、この設計チームに組み込まれても余り役に立たないので、「誰がやっても同じ」と言われた空気膜構造の担当になりました。当時は今のような有限要素法はなかったし、膜構造を扱う有限変形理論も確立されていなかったので、数値解析は当時坪井研究室で吊屋根構造の研究をしていた大山宏博士の修士論文を引用して、吊屋根構造の釣合方程式(微・積分方程式になる)を和分・差分形式に置き換えて連立方程式の形で解くという、かなり大胆な方法に頼っていました。現在のように精密な数値解が得られる時代ならこのような簡単なことでは済まされなかったかもしれませんが、少なくとも、私が何かの審査会に呼び出された記憶はないので、特別の審査もなく設計が許されたのではなかったかと思います。現在、建築基準法に適合しているかどうかの審査が論議の的になっていますが、当時は今で言う「エキスパートジャッジ」的な発想がうまく機能していたのかもしれません。

この大阪万国博覧会のお祭り広場の大屋根は、短辺108m、長辺292mのダブルレイヤーの平板トラス立体構造で、屋根を6本の支柱で地上45mに支持する巨大構造で、1辺が10.8mの等長パイプ部材で構成されていました。屋根は地上で地組みされて、6本の支柱に沿って空気ジャッキでリフトアップされたのです。私は、このトラスの上面の10.8mグリッドの枡に合計283個の2重膜形式の空気膜屋根を架設する設計チームに組み込まれました。一辺が10.0mの正方形のグリッドを厚さ1.0mmの透明なポリエステルフィルムを2重に重ね、間を加圧空気で満たして屋根を作る計画は、多くの難問を抱えてはいたものの、設計者である丹下健三博士の要求された、「広場から空の雲が見えて」、「木陰に居るように涼しくて」そして「軽い」という注文をほぼ満足する屋根の実現に漕ぎ付けたのでした。滋賀県大津市の東洋レの工場内に作った実台モデルの上に数十人の関係者が上ったときは、本当に物つくりの喜びが湧き上がってきて感動したことを感慨深く思い出しています。

坪井先生がマトリクス法の文献を持ち帰られて3年ほど経過していましたが、この頃すでに米国では宇宙関係や原子力関係の解析ソフト(確かNASTLANだったと記憶しています)が実用化され、多節点トラス構造の解析が可能になっていました。実際の計算は三菱原子力工業のIBM計算機を使用したのですが、入力に必要なパンチング代(当時入力データは専門のタイピストによって作成されていました)や計算料がとても高額で、スタディモデルの解析に「電算機」を用いることは予算的に不可能でした。設計がほぼ完了して、最後の確認計算に使うのが精一杯だったのです。

お祭り広場大屋根トラスの部材寸法の仮定には差分法やフーリエ解析法による板の解析が役立つと思われていましたが、それらにより得られる解がどの程度トラスの解と一致するのかが不明でした。当時、坪井研究室では東京大学の鹿児島・内之浦ロケットセンターの屋根を設計しており、その構造がお祭り広場大屋根のトラスと同じ形式でした。平面が正方形で対称性を考慮すると屋根の1/8を解析すれば良いので、13節点までのトラスの解析が生研の計算機で可能でした。フーリエ級数解は10項程度の展開で十分な精度が得られ、差分も1辺を4分割することが出来るのでほぼ工学的かつ実用的な解が得られると思われました。解析の結果は図##の通りです。板の差分解がトラスの部材寸法の仮定に有力な近似解を与えてくれることが判明したのです。

この等長部材による平板トラスは、平面板に近い挙動を示すものの捩り剛性がないため平面板そのものの挙動とは異なるのですが、屋根全体の精算を行う前の略算として差分法が採用されました。曲率を持たない平面構造では等価伸び剛度は不要ですが、等価曲げ剛度(flexural rigidity of plate)の仮定が大切なのはシェルの場合と同じです。

 

先にも述べましたように、連続体の理論が発展したのが昭和30年代の前半であり、マトリクス法による空間構造が本格化したのが昭和40年代の前半であることを考えるとき、この二つの時代に挟まれた10年間(正確にはもう少し短かったように思われますが)は一体どのような時代だったのでしょうか?それは紛れもなく、「連続体理論でいかに離散型構造の解析をするのか」という「継ぎ」の時代だったと言えましょう。学会の論文集の中に、種々のパターンのトラス構造の等価曲げ剛度、等価伸び剛度の換算法に関する論文が多く掲載されました。鉄骨の生産量が飛躍的に増え、加工技術が高度になって大空間構造はコンクリートシェルから鉄骨シェルへと移行して行ったのです。この移行期にシェルの解析を研究テーマにしていた私は、とうとうコンクリートシェル設計の機会に巡り逢えないまま現在に至っています。

晴海貿易センター2号館は19##年に竣工し、200#年に解体されるまでの約40年の間、世界有数の美しい球形ドームのお手本としての地位を維持してきました。近年、多くのドームが建設されましたが、規模は大きいものの、解析の手段を持たない時代に巨大空間を設計する発想の独創性と大胆に切り落とされ、緊張感の漲るあのデザインに勝るものは残念ながら見当たらないと言っても過言ではないでしょう。坪井先生が空間構造の研究者であり、構造家として世界的な評価が与えられたのも十分頷けるところです。

近年、コンピュータの発達と高度な解析プログラムの普及で、複雑な部材構成の骨組みがいとも簡単に解析できるようになりました。意匠偏重の力学的な必然性の薄い構造が流行しているように見受けられます。材料の最小化からえられる形態や動・植物の形態を分析した有機的デザインがわれわれに新鮮な感性を与えてくれることは事実ですが、力学に裏づけされた幾何学的な平面や曲面もまたデザインの有用な手段であることを考えるとき、平面や曲面の力学にもっと多くの興味が向けられてもいいのではないでしょうか。

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