株式会社中田捷夫研究室

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アトリエ系構造設計事務所の「はじまり」

中田捷夫

聞き手:KRP(門脇耕三・権藤智之)

 

■構造家を目指すまで

 

KRP:本日は、構造家の中田捷夫先生にお話しを伺います。中田先生は、大変多くの建築家と協働されていますが、ミノル・ヤマサキ、I・M・ペイなど、世界的な建築家と、国境を超えてお仕事をされていることでも有名です。その内容も、RC造や鉄骨造はもちろんのこと、大断面の木質構造にチャレンジされるなど、大変幅が広く、最近では、岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」をメキシコから東京の渋谷駅へ移設するプロジェクトが大きな話題となりました。

中田先生のご興味は大変幅が広いようですが、そもそもどういう経緯で構造家を目指したのか、教えていただけますか?
 

中田:僕は大阪の堺というところの生まれですが、実は父親が設計事務所をやっていました。僕が生まれたのは1940年で、太平洋戦争が始まる寸前でした。1945年4月には、堺はほとんど焼け野原になってしまいましたが、その後は戦後復興の時代になりますので、父親は結構仕事があったんでしょうね。家の一部屋を事務所にして、若い人を何人か使ってやっていました。僕が小さい頃は、子どもが仕事部屋に入るのは御法度だ、と中に入れてくれなかったのですが、中学生くらいになると、父親の横に座って、図面を描く鉛筆を削るのが僕の仕事になっていました。その頃には、「設計とはこんなものかなぁ」ということを、漠然とですが理解していたように思います。当時は、あまり建築に進む気はなかったのですが、大学を受験する頃になると、「建築をやるんだ」と自然に思うようになっていました。

 大学は、いろんなところを受けましたが、著書を読んだことがあった坪井善勝という人が、併任教授でいると書いてありましたので、日本大学も受けてみることにしました。そうしたら、他は全部落ちまして(笑)、日大に行くことになったのです。

 

■坪井善勝研究室へ

 

中田:大学では、入った頃は遊んでばかりいまして、1年生の前期が終わった頃には、自然科学系の科目が総崩れでした。それで母親に怒られましてね。これはいかん、ということで、その後ちょっと頑張りました。それで、3年生が終わった頃には、どういうわけか特待生になった。成績が大学全体で3番になったんです。その頃も、坪井先生は併任教授を続けられていましたが、ある日、「以下の者は当研究室への入室を歓迎します」といって、鉄筋コンクリート構造の成績優秀者を貼り出されたんです。その中に、僕の名前も入っていましたので、坪井研で卒論を書くことになりました。その時に、坪井研で修士論文を書いていたのが、日本建築学会長もされた齋藤公男さんです。僕は最初、齋藤さんの修士論文を手伝って、その次の年、シェル構造についての卒論を書きました。

 直接卒論の面倒を見てくれたのは、角野晃二という人です。九州大学の数学科を出て、坪井研で学位論文を書いた方なのですが、いわゆるテンソルの使い手でした。僕の卒論も、シェルのフーリエ解析という、ほとんど数学の問題で、手廻し計算機で一生懸命計算をやりました。

 大学院は、「東大に来い」と坪井先生に誘われました。当時、日大には加藤渉先生というシェルの専門家がいましたから、なぜ俺がいるのに東大に行くんだ、とさんざん嫌みをいわれたものです。ところが、東大の試験の一週間ほど前になって、突然坪井先生に呼ばれて、「やっぱりおまえ日大に行け」と。加藤先生を必至に説得して、推薦状までもらっていたのに、これには参りました。それで結局、日大の大学院に進むことになったのです。

 当時、坪井先生は三つテーマを持っておられました。一つは、角野先生のテンソルを使ったシェルの基礎論。もう一つが、サスペンション屋根の基礎的な研究。それから、扁平シェルの解析です。同級生は僕もあわせて三人いましたから、それぞれが一つずつテーマを担当して、卒業後は、他の二人は坪井先生に紹介されて、大学の先生になりました。ところが、なぜかは知りませんが、僕だけどこにも口を利いてくれなくて、坪井先生の私設の助手をさせられたんです。坪井先生の研究の計算をしたり、論文の清書をしたり。そうこうするうちに、大阪万博のお祭り広場(図2)のプロジェクトが始まりました。

 

感性を大事にする

 

中田大阪万博のプロジェクトが始まったのは1968年ですが、その年に坪井先生が60歳になられて、東大を定年になったのです。そこで初めて「坪井善勝研究室」という民間の組織を立ち上げられました。当時、青木繁先生が、椿山荘のすぐそばにある「目白台アパート」という高級マンションに事務所を構えられていて、「来ませんか」と誘われたので坪井研究室もそこに入ることになりました。

 お祭り広場の設計は、チーフが川口衛先生でした。それを、僕もお手伝いすることになったのです。僕は父親の手伝いはしていましたが、それまで設計の経験がなくて、どうしたものかなぁと思っていたら、「中田君、これをやれよ」と川口先生に言われたのが、お祭り広場の大屋根でした。川口先生は僕より8つ年上ですが、大学院生の頃からずっとお世話になっていまして、「中田君を教えたのは自分なんだ」なんていまだに言われていて、頭が上がらないんです。

 お祭り広場の大屋根は、空気膜構造で、厚さ1mmのポリエステルフィルムを10m四方の座布団状にして、空気で膨らませてあります。ポリエステルのフィルムですから、厚さ1mmでも強度は高いのですが、できてみると下がスケスケに見えるんです。坪井先生は「これに登ってみよう」とおっしゃって、膜の上に乗っかってしまいました。僕はというと、自分で設計して、十分強いことはわかっているのに、怖くて登れないのです。

 話は横へずれますが、結局、設計をやっていて大事なのは、こういう「怖い」と思うような感性なんです。普段の生活の中で、ものを見れば、どれくらいの強さがあるか、みんな大体わかります。たとえば、川に丸太の橋が架かっていて、それを渡ろうとするときに、ポケットから電卓を取り出して、計算を始める人はいないでしょう。では、どうするかというと、まず片足で踏んでみて、大丈夫そうなら渡るわけです。動物だって、みんなそうしています。だから、ある種のトレーニングをすれば、人間は材料の特性を、感性として感じることができるはずなんです。部材を手で押したり引いたりしてみて、ここまで大丈夫なんだな、ということを体で感じることが、計算よりも大事です。

僕は、建物を見れば、こんな構造はダメだ、こんなことをやったら危ない、ということが解ります。見ただけで、強さだって感じることができる。その感性が大事なのです。お祭り広場のプロジェクトで、僕はそんなことを学びました。

 

■坪井善勝研究室のチーフとして

 

中田:お祭り広場の後も、いろいろやっていましたが、坪井研究室で2年経ったくらいに、また坪井先生から「おまえ、ちょっと来い」と呼び出されました。そこで、「おまえ、そろそろ行くか?」なんておっしゃるから、訳もわからず「はぁ」と言ったら、「おまえは日大の先生になるんだよ」と。青天の霹靂でした。日大には齋藤謙次先生という大物の構造学者がいらして、坪井先生とは親友でいらっしゃいました。僕が卒業するとき、急遽東大に行くのをやめさせられたという話をしましたが、どうも齋藤先生が、中田はうちで面倒を見るから、ちょっと預かってくれ、と坪井先生に言ったらしいんですね。坪井先生の下でいろいろ経験して、それから大学に戻るのが良いと思われたらしいんです。ところが、当時はちょうど大学紛争の頃で、理工学部長をしておられた齋藤先生は、その心労で亡くなられてしまいました。その後の学部長が、「おまえ何で東大なんかに行くんだ」といじめられた加藤先生でしたから、その話も無くなってしまって、坪井先生に「もうおまえは行くところがないから、ずっと俺のところにいろ」と言われて、それが不幸のはじまり(笑)。それからは、僕が50歳になって、坪井先生が83歳で無くなるまで、坪井研究室でお世話になることになります。
 

 その頃の坪井研究室には、スタッフは僕を含めて4人しかいませんでした。川口先生は、法政大学の先生をされていましたから、外部から設計をサポートするという立場です。お祭り広場のプロジェクトは1970年に終わりましたが、その後、丹下健三先生とは、マケドニアの「スコピエ中央駅」というプロジェクトを一緒にやりました。スコピエの中心市街は、1963年の大地震で壊滅してしまいましたが、少し離れたところに新しいまちをつくろう、ということで、国際コンペが行われて始まったプロジェクトです。丹下先生の当選案は、幅130m、長さ600mの高架の駅をつくろうというもので、2・3年かけて設計をして、1972年に終わりました。ところが、その頃から丹下先生と坪井研究室の関係が変わってしまって、結局スコピエ中央駅が、丹下先生との最後の設計になりました。あの後、丹下先生の設計からは、構造美の世界観がなくなってしまったように思います。
 

 その後、沖縄で海洋博が開催されるということで、外国館を6つ設計していましたが、その最中にオイルショックがあって、坪井研究室にもあまり仕事がなくなってしまいました。その頃、坪井先生が、代々木の体育館が見えるところで仕事をしたいと言い出して、目白台アパートから、原宿駅前のコープオリンピアに引っ越ししました。そこで舞い込んできたのが、ミノル・ヤマサキの「神慈秀明会ホール」の仕事です(図3)。
 

 ある日、伊東正好先生という方が、坪井先生と京都で会いたいと仰っている、という電話が大林組の秘書室からかかってきました。伊東先生という方に心あたりはなかったのですが、とにかく坪井先生は京都に行かれて、戻ってらっしゃったときに、僕に2枚の写真を見せて、「おまえ、この仕事やるか?」と仰る。後でわかったことですが、この伊東先生というのは、ミノル・ヤマサキの年の離れたいとこで、ニューヨークのワールドトレードセンターの設計も担当された方でした。そういうわけで、坪井研究室としては僕がチーフになって、この仕事をすることになったのですが、構造の基本設計は、アルフレッド・イー(Alfred A. Yee)という、ハワイ在住のプレストレストコンクリートの専門家が既に終えていました。構造のチェッカーとしては、レスリー・ロバートソン(Leslie Earl Robertson)が入っていました。ところが、アルフレッド・イーの設計は、すべてをプレストレストコンクリートでつくるというもので、屋根の梁などは1本で500tという、とてつもない重い構造になっていました。それで、これはちょっと考え方がおかしいのではないか、ということになって、日本なら坪井がいる、という話になったらしいのです。

 

 坪井先生は、この仕事からさらに50年ほどさかのぼった時代に、ヤマサキと神戸のアメリカ領事館の設計をされたことがあって、その後もアメリカに行くたびに、ヤマサキのところに寄ったりしていたようで、親交があったのです。ところが、坪井先生は、最初ずっと不機嫌でした。ご存じのとおり、坪井先生は形態と構造を融合させるデザインを追求されてきた方ですが、この仕事は既にかたちはできてしまっていて、それにあわせて構造を何とかしてください、という依頼でしたから、それはおかしいのではないかと。そこで、伊東先生とお話しをした1ヶ月後に、「デトロイトに行くからおまえも一緒に来い」と言われて、ミノル・ヤマサキの事務所を訪ねることになりました。坪井先生は、何とか自分の構造をかたちにまで反映させようと考えてらしたようです。そういうわけで、ヤマサキに会ったのですが、ヤマサキから「このデザインは変えられない、お施主さんはこの提案をものすごく喜んでくれている、何とか協力してくれ」と頼み込まれて、結局、坪井先生は折れてしまいました。坪井先生は了承はされましたが、面白くなかったらしく、帰り道では僕にあたられて参りました。とはいえ、これが縁で、神慈秀明会の仕事をヤマサキと一緒にいくつかすることができました。

 

 神慈秀明会の仕事は、結構続いたのですが、カリヨン塔の設計をしているときに、ヤマサキが亡くなってしまいました。その後を引き継いだのが、ヤマサキと親しかったイオ・ミン・ペイです。ところが、坪井先生もカリヨン塔の竣工を見ずに亡くなられてしまいました。カリヨン塔の竣工は1990年12月ですが、坪井先生が亡くなったのもその年の12月です(図4)。ペイさんとは、カリヨン塔の後にMIHO MUSEUMという美術館を設計しました。坪井先生ももういませんので、その後は僕が引き継いで、一緒に設計をしました。いま、ペイさんとは神慈秀明会のMIHO美学院という学校を一緒につくっています。

独立、中田捷夫研究室へ

 

中田:少し話が前後しますが、僕が40歳になった頃、坪井先生が「俺はおまえにこれ以上金を払えないから、足りない分は自分で稼げ」と言い出されました。自分の事務所をつくってもいいよ、と言ってくださったのです。ただし、坪井研究室にも籍を置いて、神慈秀明会の仕事と、住宅都市整備公団(現 都市再生機構)の委託研究の仕事だけはやれ、というのが条件でした。坪井研究室では、公団から依頼されて、当時いろんな委託研究をしていたのです。その2つだけを坪井研究室でやれば、あとは何をやってもいい、ということでした。そこで、前にいた目白台アパートに部屋を借りて、TAN設計室という事務所を始めました。TANというのは、坪井・アンド・中田の頭文字です。

 

 事務所を開設した頃に、最初に知り合ったのは伊東豊雄さんでした。引き合わせてくれたのは、僕の大親友で、東京大学の坪井研究室出身の半谷裕彦さんという方でした。半谷さんと伊東さんは、東京大学の同級生です。伊東さんは、菊竹清訓先生の事務所の出身ですが、菊竹先生は松井源吾先生か木村俊彦先生どちらかに構造を頼まれていましたので、そんな大先生に小さな仕事を頼むわけにもいかないからと、僕を紹介してもらったのです。

 

 伊東さんとは、できたのもできないのも、いろいろなプロジェクトをやりました。最初にできたのが、「レストラン・パスティーナ」という小さなイタリアンレストランです。何年か経ってから、石井和紘さんがこのレストランをみて、感心してくださったらしく、伊東さんに紹介していただいて、「北九州市立国際村交流センター」の設計を一緒にやりました。その次に伊東さんと設計したのは「中目黒Tビル」です。そのあとも、ずっと仕事をやり続けるでもなく、かといって切れるでもなく、伊東さんとは良い関係が続いています。

 坪井先生が亡くなったあとは、坪井研究室を引き継いで、「中田捷夫研究室」としてやっていくことになりました。その頃に、「一緒にやりませんか」と声をかけてくれたのが隈研吾さんです。最初に一緒にやったのが、「檮原町雲の上のホテル」の設計で、そのあと熱海の「水 / ガラス」をやりました(図5)。それからしばらく空いて、「石の美術館」をやって、最近では銀山温泉の「藤屋」。いまもいくつか一緒に設計をしています。

 もう一人、中田研究室を開設して最初に声をかけてくださったのが、木島安史さんです。木島さんと最初に一緒にやったのが、九州の「小国町立西里小学校」で、木造で高さ13mのドームをつくりました(図6)。そのあと、四国の「保内町庁舎」をやり終わえたあとに、木島さんも亡くなってしまいました。

 

 その頃に、伊東豊雄さんから「中田さん、ちょっと助けてあげてよ」と電話をもらって、紹介されたのが倉俣史朗さんです。倉俣さんは、くまもとアートポリスの事業として、大甲橋という橋の周囲の景観整備の仕事をされていました。それが、スパンが110mくらいのアーチを川にたくさん架け渡す、というものだったのですが、アーチの直径は45cmしかない。ところが、そんな太さじゃできるはずはないと言われて、倉俣さんが困っていたときに、伊東さんが「困ったときは中田さんに相談した方がいい」と助言されたらしいんです。それで、倉俣さんと会うことになりました。いろいろ検討したのですが、僕が提案したのは、カーボンファイバーを使ってアーチの直径を小さくする、という方法でした。ちょうど、レース用の自動車を軽量化するというので、住友金属がカーボンファイバーを扱っていましたから、僕が聞いたら、「できますよ」という返事でした。ただ、直径45cmですと、長さが4~5mくらいしかできないので、それをどうやって100mに接いでいくか、というのが課題でした。そこで、半谷さんに相談したのですが、「中田さん、それ面白いけど、難しいよ」と言われてしまいました。何が難しいかというと、解析が難しいんです。今でも、釣り竿の構造解析はなかなかできません。釣り竿は、手元では曲げが支配的ですが、先端の方は張力でもっています。それが、一本の釣り竿の中で連続的に変化している。どの断面も、力の釣り合い状態が違うんですね。この橋も、ちょうど釣り竿と同じで、一種のシェル解析が必要になるんです。そういうものを解析するのが難しいという話だったのですが、何とかあたりをつけて、壊れはしないだろうということがわかりました。

 そこで、お金がどのくらいかかるか聞いてみましたら、メーターあたり300万円かかるという。予算は1億円しかありませんでしたから、30mつくったら終わってしまいます。それで住友金属に掛け合ったところ、そういう話なら開発費の一部を投入して、材料を支給しますよ、と言ってくださいました。その頃、企業はパワーがあったんですね。

 ところが、今度は港湾法の関係で、原設計通りでは許可が下りない、ということがわかって、仕方がないので、少し設計を変更して、ようやく前に進もうかというときに、倉俣さんが亡くなって、この話も止まってしまいました。

 岡部憲明さんも、彼が関西国際空港のプロジェクトを終えた直後くらいに、僕のことを気に入ってくれたようで、コンペを一緒にやりませんかと声をかけてくださいました。それから、東京大学へ設計課題の講評会に行ったときに、たまたま非常勤講師でいらしていて、僕に声をかけてくれたのが栗生明さんです。栗生さんは千葉大学で教授をされていますが、千葉大で教えてくれませんかと言われて、非常勤講師として何年か行きました。その間に、「桐蔭学園メモリアルアカデミウム」で栗生さんが新しい提案をしたいということで、設計を一緒にしたことがきっかけで、機会あるたびに一緒に設計をしています。

KRP:中田先生は世代的にも大変幅の広い建築家と協働されていますが、構造家としての係わり方は、建築家によって違ってくるのでしょうか?

中田:全然違いますね。構造的なアイデアをあまり求めない方もいますし、逆に「中田さんにお願いしたのは、難しいことをするためです」と言って、アイデアを出させる方もいます。ただし、僕は構造だけをやっているつもりはありません。坪井研究室にいた頃は、構造の人が「これは建築的にもみるとおかしいんだよ」と言うかと思えば、意匠の人が「これは構造的におかしいだろ?」と言う、そんな議論をしていました。どこからどこまでが構造、と分かれているのではなくて、一緒に建築をつくっている、という意識こそが大事です。

 

木造へのチャレンジ

 

中田:木構造に関しても、いろいろとチャレンジする機会がありました。ちょうど中田研究室を開設した年に、日米構造協議の一環として、木造の性能規定化の動きがあったことが、木構造にのめり込むようになった最初のきっかけです。それまで、日本は木造に関してはほとんど仕様規定で決めていましたので、これが外国木材の輸入障壁になっている。それがアメリカ側の主張でしたので、日本側は折れて、準防火地域で、高さ13m以下、延べ床面積3000m2以内の建物は、性能設計をすれば木造でも建てられる、の建物は、というふうに法律を緩和したのです。その時、アメリカが特に主張したのは、ツーバイフォー構法による建物を建てやすくして欲しい、ということでした。アメリカの木造は、みんなツーバイフォーですからね。そこで、3000m2の「スーパーハウス」という木造共同住宅のデモンストレーションハウスを日本で建てる、という話になりました。

この「スーパーハウス」は、もちろん性能設計に基づいて構造設計をしました。つまり、木構造の性能を、鉄骨造やRC造と同じ手法で評価する、という今までにない試みにチャレンジしたのです。ところが、このプロジェクトは設計期間が本当に短くて。デモンストレーションということで、引き渡しの日時は既に決まっていましたが、僕のところに相談が来た時点で、あと1ヶ月くらいしか時間がない。しかも、その相談があったのが、事務所開きの前日でしたので、そんな急ぎの仕事はできません、と最初は断ったのですが、頼み込まれて引き受けることになりました。次の日から、名古屋にいる僕の教え子にも手伝ってもらって、必死にやって、何とか間に合わせることができました。

それ以降、アメリカの人たちとも親しくなって、木造の仕事をいろいろやる道が開けました。その次に木構造の設計をしたのは、那須の「伊王野ゴルフクラブ」です。意匠設計は一色建築設計事務所の納賀雄嗣さんです。大きな屋根を架けましたので、1m20cmくらいのアメリカ産の集成材を使って、それをドイツから輸入した金物で接いで、40mの梁をつくって、片流れの屋根にしました。このプロジェクトは、延べ床面積が約5000m2あって、3000m2を超えていましたから、法改正後、初めての38条個別認定、いわゆる大臣認定を使って建てました。

 それから半年くらいしたら、今度は石本建築事務所から電話がかかってきて、氷見のスポーツセンターのコンペがあって、それを木造でやりたいのだが、氷見は積雪が2.5mもありますし、皆そんなのできっこないというので、中田さんに是非チームに入って欲しい、といわれました。スポーツセンターですから、大アリーナと中アリーナと、真ん中にコンコースがあって、最初はそれぞれに屋根を架ける設計をしていたのですが、落雪の問題もあって、1つの大屋根を架けよう、ということになりました。フットプリントは約100m×50mになりましたから、1本100mの梁をつくって、大アリーナの背が高い空間から、裏手の低い空間まで、なだらかな勾配で並べる提案をしました。コンペの審査会でも、「本当にこんなのできるんですか?」と言われたらしいのですが、審査員の一人が「中田さんなら大丈夫じゃないですか」と言ってくれたらしくて、当選することができたのです。計算をしてみたら、梁のせいが1m92cm必要ということがわかりましたので、アメリカの集成材を、さきほどのドイツの金物で接いでつくることにしました。そうしてできたのが、「氷見市ふれあいスポーツセンター」です。積雪が多いので、ちょっと大変でしたが、集成材でつくる大スパン空間の限界に挑戦できたと思っています(図7)。

 このドイツの金物はなかなか優れたものでしたが、サイズが大きいので、小さな建物には使えない。そこで、それを自分なりに改良した、小さなサイズの金物をつくって、だいぶ木造の建物を建てました。小さなものまで含めると、100棟くらいつくったかもしれません。

 

構造設計者の責任

 

中田:最近の仕事としては、メキシコで発見された「明日の神話」という岡本太郎の壁画を修復して、渋谷駅の井の頭線のコンコースに移設する、という仕事をしました(図8)。
 

KRP:ああいうパブリックな場所に、自然光があたる大きな壁画があるというのは、とても良いですよね。
 

中田:そうなんです。美術品をああいうかたちで、パブリックな場所に置くというのは、世界的に見てもあまり例がないんです。いたずらで壊されたらどうするのか、という議論が大分ありましたが、僕からすれば、壊されたらまた直せばいいじゃないか、という発想です。ただ、この壁画は裏側がALC一枚でできていて、地下鉄の線路に面しています。そこが半屋外の場所ですから、地下鉄が入るたびにほこりが積もって、壁画といえども、美術品の保存という観点からはあまり良い場所ではありません。
 

KRP:ALCということは、地震のときはロッキングするのですか?
 

中田:壁画が設置されている建物自体は鉄骨造ですので、揺れることは揺れるでしょうね。でも、あれが地震で壊れたとしても、仕方がないのではないでしょうか。今の日本はちょっとおかしくて、地震でものが壊れたらいけないとみんな思いこんでいます。でも、そんなことを言っていたら、本当は建物は成り立ちません。最近は、特にヒステリックになっているように感じています。
 

KRP:そういう風潮になったのは、何かきっかけがあったのでしょうか?
 

中田やはり、いわゆる姉歯問題がきっかけでしょうね。あの事件が起きるまでは、行政と実務者の間にはある程度の信頼関係ができていました。ところが、あの事件によって、その信頼関係が崩れたばかりか、世の中が責任の所在の追及を血眼になってやるようになってしまいました。一旦そうなると、話がどんどん細かい方へ向かってしまいます。今ですと、極端な話、ボルト1本、釘1本でも位置が設計図と違っていたら、それは違反だと認識されてしまいます。このことには、コンピュータの発達も関係していると思っていまして、最近では、やろうと思えば、どんな細かい条件も計算に反映することができる。それこそ、釘1本まで計算に入れて、パネルのせん断剛性を計算できてしまいます。いずれにしても、精緻さを追求するというか、一寸たりとも間違ったことは許しません、という価値観が今の世の中を支配しています。しかし、細かいところを見るようになると、そこを追求することばかりに目が向いてしまって、今は全体の評価が行われない時代になってしまいました。これは大きな問題だと考えています。
 

KRP:姉歯問題以降、構造設計に対するクライアントの目が厳しくなったことも、この風潮に関係しているかもしれませんね。クライアントに対する説明を、構造設計者が求められることがある、という話を聞いたことがあります。
 

中田:確かに、構造設計の業務を一般の方にちゃんと説明できることは必要になってきていると思います。しかし一方で、一般の方が、どこまで構造の業務の中身を理解してくださるのか、疑問ではあります。たとえば、車を買うときに、エンジンの構造計算をしている人に会いたいという要望は、まず生じません。あくまで、プロダクトとしてできあがった車に対して、どういう信頼を置くか、という話だと思います。建築に関しても、契約は発注者と建築事務所の間で結ばれるわけですから、契約した建築事務所がきちんと責任を持つ、というのが本来の姿です。分離発注のように、発注者が建築事務所と構造事務所とで別々に契約をしたら、設計は絶対にうまくいかないでしょう。

 

 では、我々構造設計者は、誰に対して責任をとるのか。一つには、もちろん契約した相手に対してです。しかし一方で、契約した相手に対してだけ責任をとれば、あとは何をやっても良いのか、というとそうではなくて、社会に対する責任を背負う必要もあるはずです。我々は、社会の中で構造設計者として仕事をして、糧を得ているわけですから、構造設計者という職能としての、社会に対する責任があるのです。きざないい方をすれば、自分の仕事に対して、自分自身が責任をとる、ということかもしれませんね。自分の良心に基づいて、きちんとやっていかなければ、この仕事は成り立たないのです。

 

現状の法律の問題

 

中田:そういう意味では、国交省がやってきたことは、おかしなことばかりです。第一に、今の法律は、理解しがたいことがかなりあるわけです。その大きな理由は、法律が継ぎはぎをするように整備されてきたことにあると思っています。日本の構造設計法は、もともとは関東大震災のあとにできた、建物の自重の20%の水平力に対して大丈夫なようにしましょう、という考えから始まっています。ところが、高層の建物など、新しい形式の建物が必要になるたびに、いろいろな計算法を追加してきました。時代が下るごとに、新しい係数ですとか、ややこしい決まり事がどんどん増えてきて、今ではもう満艦飾ですよ。
 

 その前提となっているのは、日本の建物の中心が、基本的には箱ものとビルものだということです。この手の建物は単純ですから、継ぎはぎだらけの法律に基づいても、そこそこ設計ができるのです。ところが、今の法律に馴染まない、単純ではない建物もたくさんあります。そういうものまで法律でカバーしようと思うと、理解しがたい法律ができることになって、構造設計者はそれに対応するだけで、右往左往するのです。

 おまけに適合性判定なるものが、うまく運用されていません。適合性判定は、そもそもピアチェックという考え方に基づいているはずです。つまり、同じ程度のスキルを持った専門家が、設計の外の立場から、その考え方を理解して、検証して、場合によってはより良い提案をしてもらって、トータルとしてのクオリティを高めていこう、という思想です。ところが、適合性判定員をやっている人に、十分な設計能力のある人が少なすぎて、設計の細かい部分の単なるチェックになってしまっています。それだけならまだ良いのですが、チェックが精緻化しすぎていて、終わるまで大変時間がかかります。時間がかかるということは、プロジェクトを進める上ではそれだけ余計なお金がかかるということです。たとえば、学校の場合は、3月にできる予定のものが、チェックに時間がかかって1ヶ月完成が遅れれば、開校は1年のばしになってしまいます。プロジェクトの進行を阻害するような精緻化であれば、それは意味のないことです。
 

 もう一つ疑問に思っているのが、法律に関する基準や指針のつくり方です。僕も基準づくりに関わったことがありますが、ああいう場というのは、将来のことを考えて、本当に良いものをつくろう、という判断が働くところではないのですね。たとえば、今行われている研究を総覧して、総花的なメニューをつくって、じゃあこの部分にはあの大学のあの人の研究成果を入れておこう、といったふうに決まります。学術的な成果が、いろんな試験にきちっと耐えて、十分な検証を経た結果、基準に反映されるのであればまだ良いのですが、大学で計算して出た結果が、半年後には条文になってしまうことさえあります。このように、研究と法律の距離が近すぎることは、非常に危険なことだと思っています。
 

 一番困るのが、実験式が法律に反映されることですね。実験式は、実験の結果を統計的に処理したものですから、物理的な根拠の全くない係数などが、数式に入ってくることがあります。さらに、統計式ですから、ミニマム式やらマックス式やらが必要になって、設計する立場からすれば、どれを使えば良いのか訳がわからなくなっています。

 

研究と実務との関係

 

KRP:研究と法律が近すぎるのが問題であるという中田先生の認識は、なるほど、と思うところがあります。一方で、研究と、法律と、実務は、やはりどこかで接点が必要だと思います。中田先生は東京理科大学の教授もされていましたが、ご自身ではどのようにコントロールされていたのでしょうか?
 

中田坪井善勝先生がよくいっていましたが、研究には虚学と実学があります。坪井先生は、役に立たない研究のことを虚学、中身があって、社会の幸せのために貢献する研究を実学と言っておられました。ただ、僕自身は虚学にも意味があると思っていて、今すぐなにかの役には立たないけれど、長いスパンの視点を持って、世の中の方向をきちっと見定める研究、そういうものだと認識しています。

実務と学問が近くなりすぎると、実学に走りがちです。たとえば、企業からお金を貰えて、たくさん実験ができる研究ばかりやるようになる。それはそれで良いのですが、そればかりだとダメで、この先の建築の方向を見据えた、スパンの長い研究を同時に推進していくことも必要です。ところが、本当にやらなくてはいけないこと、つまり、何十年も先を見据えたテーマを持って研究をされている人は、今は少ないんです。そういう意味では、将来は非常に暗いと思っています。

中田研究に虚学と実学があるように、大学も二つの側面を持っています。ただ、教育という観点からは、実学を推進することがどうしても必要です。先生が世の中ときちんとつながって、学生に実社会のことを教えないといけないですし、学生にとっては、そういう先生につかないと就職先も見つかりません。ところが、大学の研究は、実学といっても実務とは違いますので、自分の事務所を持って構造設計をしている人を大学に呼ぼう、という風潮にだんだんとなってきました。意匠の方では既に当たり前のことですが、そういう世界を学生に見せてやることは、良いことだと思っています。

 僕も実務をやっている人間として大学に呼ばれましたが、自分の感覚としては、大学で3年間教えたら、今度は5年間くらいに実務に重きを置いて、また3年間大学で一生懸命やる、くらいのリズムが良いと思っています。設計をやっている人が大学で教えるには、やはり新鮮さが売り物なんです。理論をやっている人は、それこそ何十年も前の理論を黒板に書いていても授業になります。ところが構造設計やデザインに関しては、10年前のものを見せても学生は喜ばないんですね。研究と実務をどちらも頑張ったら、とてもからだが持ちませんし、軸足の置き方としては、そんなサイクルでやるのが良いと思っています。

 

中田流仕事術

 

KRP:中田先生は、事務所は何人くらいでされているのですか?

中田昔から人数はほとんど変わらなくて、僕プラス4人くらいでやっています。それ以外に、サポートとして坪井研究室や青木繁先生の研究室のOBに入ってもらいます。それで、一人がチーフ、一人がサブという2人ずつのチームをつくって、プロジェクトにあたります。大体4チームか5チームが常時動いているという体制です。

なぜそうやっているかというと、僕の事務所はいつも新しいことにチャレンジするような仕事をしていますので、ルーティンワークでできるような仕事がないんですね。だから、一つの大きな事務所にして、人を固定してしまうと、対応できないんです。仕事ごとに、その分野に詳しいスペシャリストが欲しいので、僕の周りにいる外部の専門家に加わってもらって、チームをつくることにしています。

それから、コンスタントに仕事が来るとは限りませんので、事務所を大きくしてしまうと、維持できないというのも理由です。仕事が来るときはたくさん来ますが、来ないときは本当に来ないですから。

KRP:そういう有機的なチームでお仕事をされても、中田流構造設計というのはあるわけですよね。つまり、中田先生のカラーはどのように出していくのでしょうか?

中田発想を固定化しないというのが中田流ではないでしょうかね。構造の世界は、今はどんどん専門分化が進んでいます。大学は特にそうで、いろいろな分野がありますが、それが全部縦割りになってしまっています。たとえば、鉄筋コンクリートの構造でいえば、壁式構造とラーメン構造があって、それぞれ設計要領が違っています。ところが、ラーメン構造の柱を薄くしていけば、壁式構造に近づいていくわけで、本当は一連のものごとなのだと思います。僕としては、そういう発想で建築を考えていきたいですね。

 僕自身は、鉄筋コンクリート造も、鉄骨造も、木造にも取り組んできましたが、建物の構造として考えれば、やっていることはすべて同じです。つまり、最初にどんなストラクチャーにするかということを考えて、部材が壊れないか、接合部が壊れないか、全体が壊れないか、その3つだけ検証するのです。どんな材料を使っても、部材の性能と接合部の性能だけに着目してやれば良い。もちろん、材料によって物性は違いますから、木でやろうとするときは、鉄やコンクリートにない性能をどのように評価するか、そのことだけをきちんと考えてやれば良いわけです。

 僕自身は、木造の専門家の集まりに行けば材木屋だと思われていますし、シェル関係の集まりに行けばシェルの専門家だと思われています。そうやって、いろんな分野の人にいいように使われているわけです(笑)。僕はなるべく自分の専門でない人と付き合って、情報を集めるようにしていますので、そうして仲良くなった人に、いろんなことに引っ張り込まれてしまうんです。

 そうふうにやってきたおかげか、世界的な巨匠や、これからの日本の建築界を引っ張っていく建築家と一緒に仕事ができるなど、僕は本当に仕事に恵まれてきたと思っています。

KRP:今日は長い間お話ししていただきましたが、おかげで、中田先生のお仕事の面白さ、幅の広さの秘訣を垣間見ることができたようです。本当にどうもありがとうございました。

 

(了)

図版出典・クレジット

図2            佐伯真澄

図3            株式会社 新建築社

図4            株式会社 新建築社

図5            隈研吾建築都市設計事務所

図6            中田捷夫研究室

図7            中田捷夫研究室